もういい加減慣れたつもりでいた。
ちょっとしたことで繰り返す諍いも不機嫌も、「痴話喧嘩」の括りで済むものだと安心しきっていた。
いつも通りの喧嘩がいつも通りで終わらなかったのは、昨晩から引かない微熱の所為だったかも知れない。
くらくら揺れる脳内は僕から冷静さを奪い、巧く立ち回らせてくれなかった。
いや、そもそもこの微熱がなければあんな喧嘩はしなくて済んだ筈だった。

箸をおいて彼女が言う。
「何でそんなに大人しいのよ。具合でも悪いんじゃないの?」
何度も聞いた台詞だ。ただ、いつもとは違い、今回は本当に心配そうな響きが含まれた台詞。
いつもなら率先して騒ぎ立ててくれる子供たちがいないから、本気で気にかけてくれていたのかも知れない。
問答無用で賑やかな三人は昨日から学校の夏休みキャンプに出掛けている。
その準備で慌しかったのも多分、この中途半端な風邪に影響しているのだろう。
「顔赤いし、ちょっと熱いわよ? そんなんで水仕事なんて止しなさいよ。私がやってあげるから」
熱を測ろうと額に手を当てる仕草があんまり自然だったから、油断して余計なことを言った。
「……いいですよ。僕がやった方が早いし、綺麗だし」
しなやかな眉がむっとしたように歪んだので、ますます調子に乗った。
「どろしーちゃんみたいに不器用な人に、大事な台所は任せられません。
小さい頃からずっと僕の方が上手にお片付けしてたでしょう」
この程度の軽口なら、おかずの二、三品を投げ付けられる程度で済む筈。
それくらいなら別に大した被害でもないし、とぼんやり思っていた。
……どうしてそうならなかったんだろう。
きゅっと歪められていた眉から力を抜いて、彼女は意外なほど静かな声で言った。
「分かったわ。好きにしたら」
冷えた声が思った以上に堪えて、僕はただ「そうですね」と呟くしか出来なかった。

……それでどうして、こうなってしまったんだろう。
頭がぐらぐらして、出来事の時系列が分からない。
洗い物を済ませた後、何故かどうしても彼女に謝らなければいけない気がして、でも糸口が見付からなくて、暫く付き纏っていた気がする。
怒鳴られることも物が飛んで来ることも振り払われることもなかったのに、どうしてあんなに切羽詰った気持ちになってしまったんだろう。
「風邪引きでしょ、大人しく自分の部屋で寝てなさい」
彼女の部屋の入り口で、部屋に入るのを拒まれた、その時の台詞は覚えている。
目の奥で何かが弾けてしまったのは、彼女の手が自分の体を庇う様に不安げに組まれていたからだったか。
それともその真っ直ぐな視線に、疑いや非難が籠もっているように感じたからだったか。
もう、上手く思い出せない。
確かなのはただ一つ、今僕は彼女のベッドの上で、嫌がる彼女を組み敷いているという事実だけだ。
――本当に、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
繰り返しても答えは浮かんで来ない。
「…………」
分からないなら、もういい。
頭を振って、僕は目の前の現実に没頭することに決めた。

「やめてよ……放して!」
もう長いことこうしていたのだろうか。彼女の声は少し掠れて、苦しそうだ。
何度も何度も、止めて、どいて、放してと叫んでいたのだろう。それが僕の耳に届いていないのは何とも皮肉。
肩の横で押さえ付けた両手にも、時々暴れる両足にも、充分な力は籠もっていない。
抵抗するのにも疲れてしまっているのだ。
可哀想に。
他人事のようにそう思いながら、僕は彼女の腰に圧し掛かりながら跨った。
熱の上がった体に、纏わり付く寝間着が鬱陶しい。
どう脱いでいるのか自分でも分からないまま強引に、半ば裸に近い状態になるまで脱ぎ捨てる。
勢いで倒れ込むと、ちょうど目の前に柔らかそうな丸い胸があった。
チャイナ服を模した可愛らしい寝間着は、袷のボタンがいくつか千切れてなくなってしまっている。
だらしなく開いてしまった隙間に右手を差し込み、下着を着けていない胸の、豊かな膨らみを探る。
「ああ……」
思わず声を溢してしまったのは僕の方だった。
経験したこともない柔らかさと、心地好い重み。
肌は温かく滑らかで、触れた端から破れてしまうのではと思うほど薄い感触だ。
接しているのは手のひらだけなのに、体中をこの柔らかさで包まれているような気分になる。
「どろしーちゃん、すごい……」
「やめてよ……!」
また、掠れた拒絶の声。
叫んでも叫んでも、僕が止まる訳がないのは、もうきっと解っている筈なのに。
「何がイヤなんです……? ろくな抵抗も、出来ていないくせに」
「……っ!」
声を殺して、何かに耐えている気配がする。
泣いてる。
また頭がぐらついて、曖昧な思考で「ああ、可哀想に」と思う。
こんなに苦しそうに、涙を溜めて。嗚咽を堪えて。
どうして、その様子がこんなにも僕をそそるのだろう。
「……気持ちよくして、あげますから、ね」
答えたのは押し殺した泣き声だけ。拒絶の言葉はもう、聞こえなかった。

胸を弄る手はそのままに、もう片方の左手で寝間着を脱がせに掛かる。
ほとんどボタンも残っていない前開きのワンピースなど、こうなれば単なる布きれに過ぎない。
熟れた果物の皮を剥くように、するりと両側に引き下ろして取り去ってしまう。
「……綺麗なんですね、どろしーちゃんは」
嬲るように言ったつもりの台詞は、感嘆の溜息混じりになった。
もう眠るだけだったからだろう、彼女は上半身には下着を着けていなかった。
僕の手で弄ばれている乳房は重たげで、如何にも女性らしい柔らかさに満ちている。
括れから太腿へと繋がる腰の線はしなやかに、豊かに丸みを帯びて流れ落ちていく。
「こんなに、綺麗……だなんて……」
……想像したこともない、と言ったら嘘になる。
いつも近くにいて、ずっと一緒にいて。それなのに触れることが許されなかった、この体。
後ろめたさに苛まれながら、ドレスの下の素肌を夢想した日々は確かにある。
けれど実際に目の当たりにする彼女は、想像を遥かに超えて扇情的だった。
「ああ……どろしーちゃん……」
込み上げて来る何かで、声も出せなくなる。
抱き締めて、そのまま首筋に口付けた。何度も何度も、啄むように短く、強く。
その度に体が跳ねて、小さく声が上がる。
肌の感触を楽しむように舌を這わせ、耳朶を口に含んで軽く噛む。
当然、両手は乳房を包んで放さない。時折指先で確認すると、膨らみの先端は確かに興奮を映して尖っていた。
「ねえ……自分で、分かるでしょう? ここ……」
僅かに力を込めた指先で突起を転がす。
嗚咽混じりの喘ぎ声が毀れ、抵抗するのとはまた違う風に彼女の体が蠢く。
「気持ちいいでしょう、ねえ……?」
蕩けて来ている。体も、多分、心の方も。
もうそろそろ、体重をかけなくても暴れられはしないだろうと思えた。
ならば、もっと。
「もっと、気持ちよくなりましょう、ね……?」

手のひらを滑らせて胸から脇へ、更に背中へ。何処まで行っても肌は温かく滑らかだ。
背骨に沿って指を走らせると、びくりと震えて背を反らした。
そのままもっと、下へ。下着を引き下ろしながら、尻の丸みの間へ。
「あ……」
熱い水気を感じて、思わず目を閉じる。
ゆっくりと指で探ると、一際熱を帯びた小さな尖りと、緩く蕩けた入り口。
「どろしーちゃん……ここ……分かります……?」
「や……」
「イヤじゃないでしょう、こんなに濡れて……」
言いながら、指先を少し潜り込ませてみる。
――きつい。
ショックだった。
明らかに濡れているのに、こんなにもはっきりと拒絶されている。
「すごい、狭いんですね……初めてなんでしょう?」
自分に言い聞かせるように訊ねる。
「……っ、ダメ……!」
肯定も否定もなく、ただ苦しげに首を振る仕草だけが答え。
自分で訊いておきながら、僕は確信を持っていた。過去に経験など、あるはずがない。
だってずっと、小さな頃からずっと、僕はあなたを見ていたのだから。
「ごめんね、どろしーちゃん……」
聞こえないように呟く。
女の人にとって、「初めて」はとても大事なのだと聞いた。
それがこんな形で。この僕に、無理矢理に。
ああ、可哀想に……。
「……すぐ、済ませますから」
「…………!」
目を逸らしたまま、下着を足首から抜き取ってやる。
もう、何も言わない。多分彼女も覚悟している。
重なった呼吸が張り詰めて、窓ガラスのかたかた鳴る音が不意に大きく聞こえ出した。
開いた脚の間に腰を割り込ませ、苦しげに震えているそこに、同じように苦しげな僕を押し付ける。
「うあ……」
触れ合った粘膜が、融ける感覚。
まるで引きずり込まれるように、僕は夢中で体重をかけた。
「――――――――!」
全力で抵抗する彼女の内側を、一気に貫く。
声にならない悲鳴を挙げて、内側ごと彼女が震えた。
動きを止め、息を抑え、動悸が落ち着くのを待ちながら、彼女の顔を盗み見る。
――真っ直ぐに僕を見ていた。
「う……!」
気づいた途端に、堪えきれなくなった。

勝手に暴れ出す腰を衝動のままに任せて、今にも溢れてしまいそうな叫び声を彼女の唇の中へ逃がす。
微かに開いたまま繋がった唇の間から、声が毀れ、唾液が流れる。
その所為で、頬がどろりと濡れていく。
――いや、嘘だ。
僕の頬を濡らすのは、彼女の頬に滴るのは、他でもない僕の涙だった。
鼻の奥にも、口の奥にも回ってくるほど、制御の利かない量の涙。
唇を塞いだまま、僕は何度も何度も頭の中で叫んだ。
ごめん。
こんな風にしか出来なくて、ごめん。
風邪で集中力を失っているとは言え、僕は世界一の魔法使いだ。
痛みを失くすことも、意識を飛ばすことも出来たのに、しなかった。
見たかったから。
見たことのないあなたの顔を、
傷付いてぼろぼろになったあなたの顔を見たかったから。
自分がどんなに酷いことをしているか思い知りたかったから。
こんなに酷いことをしてもあなたは此処にいてくれると思いたかったから。
僕が可笑しくなったのは、多分熱の所為だけじゃない。
子供たちもいないこの家で、本当に二人っきりでいることが怖かった。
向き合って、思い知ってしまうことが怖かった。
何処まで求めても満足出来ない自分を知ってしまうことが怖かった。
あなたが、僕を受け入れてくれても
あなたが、愛していると微笑んでくれても、
きっと僕はもっと求めてしまって
何処まで行ってもきりがなくて、
いつかあなたを
壊してしまうんじゃないかって
怖くて
恐くて
こわくて――――
「…………!」
細い腕が僕の頭を強く包み込んで、
その後、僕の意識はまた何処かへ拡散していった。

頭の芯がくらくらする。
ゆっくりと浮かび上がって来た自意識が認識したのは、逃げ出したくなるような現実だった。
子供のようにぐしゃぐしゃの泣き顔の自分。
乱れた黒髪を広げて、僕の下に力なく横たわっている彼女。
涙やら汗やらで、あの滑らかな肌はどろどろだった。
――汚してしまった。
どこかネジの吹っ飛んでしまっている頭でも、取り返しの付かないことをしたのだけはよく分かる。
「……ん、なさ……」
また、涙が出て来た。みっともないと思っても、止められない。
彼女を抱き締めて肩口に顔を埋めると、弱々しい手が僕の髪を撫でた。
「……なんで、泣いてんのよ」
耳元で囁く、掠れ声。
顔を上げる勇気はなかった。
「ど、ろしーちゃ……ごめ……」
「……いい年して、泣かないでよ」
そう言う彼女の声だって、涙交じりだ。
けれど彼女は、逃げなかった。僕の顔を上げさせて、真っ直ぐに見上げてくる。
「あんたは」
僕は?
「……何を、怖がってんの?」

暫く、何も答えられなかった。目の奥がじんじんと痛い。
「……僕は」
漸く開いた唇はすっかり渇いて、僕の声まで掠れていた。
「好きなんです」
確かめるように、ゆっくりと。
真っ直ぐに彼女を見返しながら
そうだ、僕はずっと。
「どうしようもなく好きなんです、あなたが」

いつも近くにいて。ずっと一緒にいて。
ある日突然、自分の心音に気付いて眠れなくなるみたいに、何の理由もなく思い知った。
――あなたでなくちゃ、駄目なんだ。
「好き過ぎて、……怖くて」
怖くて、目を閉じる。
「……だから、喧嘩してばかりだったの?」
苦しい息のまま頷く。
いつも意図的に突っ掛かっていた。
手に入らなければ、失わなくて済むから。
距離があれば、離れなくて済むから――。
「もし、僕のことを、好きだと言ってくれても」
耐え切れなくなって、また肩に顔を埋めた。声がくぐもる。
「僕はきっと、きっと満足出来ない。何処まで行っても、苦しいままで」
終わりが見えなくて。
「傷付けてしまうことばかりで」
あなたをぼろぼろにして。
「どうしようも、なくて――」
――不意に、顔を捻じ向けられた。驚いて目を開けるより先に、唇に温かい感触。
「あんたって、ほんっと馬鹿ね」
まだ涙目の彼女が、人差し指を押し当てていた。
「何を気にしてんのよ。傷が付こうが怪我しようが、どんなに苦しかろうが、構いやしないでしょ」
「……どろしーちゃん」
傷付いているというより腹を立てているような口調に、呆気に取られてしまう。
あれだけ酷いことをされたのに、どうしていつものように――
「こんなのはね、」
声にしなくても、彼女は答えてくれた。
「あんたと私なんだから、しょうがないわよ」

――ああ。
「……どろしーちゃん……」
「だから、泣くんじゃないって言ってんでしょ」
「大好き、です……」
「……聞いたわよ、もう」
もう一度、さっきより力を込めて抱き締める。
「ずっと、ずっと、大好きです……」
小さな頃から、ずっと。
世話焼きで意地っ張りで、負けず嫌いな年上の幼馴染み。
世界一の魔法使いだなんて言いながら、自分自身の欲望ひとつ受け入れられない僕を、当たり前のように受け流してくれる。
魔法で勝っても、力尽くで勝っても。
あなたが一方的に怒ってばかりの痴話喧嘩で勝っても。
「……敵いませんね、あなたに……」
半分寝言のように呟いて、僕はまた意識を手放した。
彼女の手が毛布を引っ張り上げるのを、どこか懐かしく感じながら。