セラヴィーと初めての夜を迎えてから、3ケ月が過ぎた。あの夜から私たちは、毎日のように身体を重ねている。自分でも驚いているけれど、セラヴィーから求められて断ったことはない。それどころか、自ら彼の部屋を訪ねたことも一度ならずともある。
 最初の晩、あんなに泣いていたのが嘘のように、今は身体が彼に馴染んでいた。
「どろしーちゃん」
 ベッドから降りて身づくろいをしていると、後ろからセラヴィーが声をかけて来る。
「何?」
「どうしていつも自分の部屋に帰っちゃうんですか?」
「だらしない事したくないのよ。ちゃんとケジメをつけたいの。だって私たちって別に結婚しているわけじゃないし、恋人同士でもないんだから」
「…恋人でもないのに」
「ん…っ」
「こういう事をするの?」
 ベッドから降りてセラヴィーは、私を後ろから抱き締めて強引に口付けをする。
「やめてよ」
 自分でも驚く位に冷たい声が出た。それで力が緩んだらしいセラヴィーの腕からするりと抜け出す。
「こんなの別に特別な事じゃないんだから。適度な運動ってとこね」
「適度な、運動ねぇ。そんな余裕な発言をされると、メチャクチャにして、泣かせてみたくなりますね」
 口元を歪ませる様子からセラヴィーが怒ったのがわかる。冷たい響きにぞくりと身が震えた。
「冗談です」
けれど、次の瞬間、セラヴィーは私に微笑みかける。その微笑みにどこか違和感を持つ。こんな風な気持ちの静め方は、らしくない気がした。
「…とりあえず、口には気をつけない?つまらない事言うなら、もう来ないわよ?」
「どろしーちゃん」
セラヴィーの眼に一瞬、怖いものが走る。
「何よ」
 努めて冷静に言おうとしたけれど、声が少し震えていたかも知れない。
「そうですね…お互いに。おやすみなさい」
拍子抜けする言葉が吐かれる。
だから尚更セラヴィーが、何らかの感情を押し殺していると確信する。
それが怒りなのか、悲しみなのか、軽蔑なのか、もっと別のものなのかはわからないけれど。


とりあえず、私は自分の部屋に戻るのを許されたようだった。挨拶には答えず、後ろを向いて部屋を出る。
ドアノブに手を触れるまでが、一番怖かった。
悔しいけれど、セラヴィーは私の気持ちなんておかまいなしに、私の身体を自由にする事が出来る力を持っているのだ。充分過ぎる位に。
振り向いちゃダメ。
部屋を出て、本当は走って逃げたいのを懸命に堪えて、静かに規則正しい足音を響かせながら廊下を歩く。
セラヴィーに抱かれた最初の夜。その出来事は今でも私の心に影を落としている。それでも毎晩抱かれているのは、奪われる位ならいっそ投
げ出して、与えてしまった方がいいという破壊的な感情のせいなのか。
それとも。
見慣れた自分の部屋のドアを見ると、心からほっとする。足を早めて、ドアを開き中に滑り込んだ。
 月光が部屋を満たしていた。その青白い光が、やけになまめかしく感じる。
気付くと身体が熱かった。
 抑えようとしても、手がじりじりと下へ降りて来る。そこに触れれば、すごくいいのだ。今の私は、その味を知ってしまっている。
「はぁ…っ…ん」
 ほんの30分前にいいだけ快楽を味わった筈のそこは、貪欲にもまた蜜をしたたらせている。さんざん彼のもので貫かれているというのに、自分で
指を入れる事は、何だか怖くて出来ない。下着の上からそこを擦ると、ぬるりという感触が指の腹に伝わる。立っていられなくなり、ドアにももたれか
かるようにしゃがみ込み、そのまま一人で暗い楽しみにふける。
ある程度年をとってから初体験を済ませると、お猿みたいに発情してしまうと聞いた事がある。
私もそうなのかしら?だとしたら、何て、あさましい…
「…あ…はぁっ…いいっ…」 
部屋を出る前に見た冷たいセラヴィーの冷たい眼を思い出しながら、昇りつめる。
 頭の中が真っ白になるような感覚を味わいながら、くたりと床に倒れこんでしまう。冷たい床が火照った頬に心地良かった。
 流石に体力を消耗したらしく、そのまま眠気が訪れる。いけない。こんな所で眠ってしまったら、風邪をひいちゃう…。
「…セラヴィー…」
 小さく呟く。
今、何をしてる?もう眠ってしまった?
そうぼんやりと思いながら、床にうつ伏せたはしたない格好のままで、私は眠りに落ちていた。

一人遊びをしてそのまま床で眠ってしまった日の翌朝。
風邪気味なのは私じゃなくて、何故かセラヴィーの方だった。
 子供達にご飯をよそう間に2回もクシャミをするので、見かねて私が交代する。
セラヴィーは鼻の頭を赤くして、エリザベスを抱き締めるようにして大人しく座っている。
 食欲がないようで、目の前の食事に全く手をつけなかった。
 そういえばセラヴィーは意外と身体が弱い。不本意ながら一緒に生活をするようにな
ってからも、季節の変わり目になるとよく風邪をひいていた。
「どんな格好で寝たんだよ」
 ご飯をかきこみながら、普段お腹を出して寝ることをうるさく注意される犬がここぞと
ばかりにセラヴィーに言う。私に向けられたものではない他意のない犬の発言に、不覚
にも赤面してしまう。
「ほうっておいて下さい」
 そんな私に気付いているのかいないのか、セラヴィーは機嫌悪く短く答えてから、黙り込
んでしまう。いつもまめにみんなの食事の面倒を見ている彼がそんな調子なので、朝の雰
囲気はひどいものだった。しいねちゃんとチャー子は目配せして何事かを話している。
 それにしても。
端正な顔を物憂げに伏せて、大事そうにお人形を抱き締めて座っている姿は、いつも以上に
セラヴィーをアブナイ人に見せていた。
「…少しでも食べられそうなものがあったら、食べた方がいいんじゃない?具合悪いなら、
今日は私が後片付けしといてあげるから。…何とか言いなさいよ、セラヴィー?」
 自分でも似合わないと思う発言をしたのに、返事がない事にむっとする。
「セラヴィーは喉が痛いから喋れないのよ。「風邪をひかない」どろしーちゃんが羨ましいわ。
でも、柄にもないお気遣いいたみいります」
 子供達が長年培われてきた勘で、自分たちの食事を庇って卓袱台から持ち上げるのが視
界の端にうつる。
 だけど私は卓袱台をひっくり返したりしなかった。
変態め。
表情を変えずに、ただもくもくと自分の前に置かれた食事を口に運ぶ。
拍子抜けしたような、白けた雰囲気が部屋に漂う。
どんなに騒々しくても、時には大人二人が大喧嘩して卓袱台がひっくり返される様な事になっても、
こんな種類のぎこちなさを味わうことは今までなかったのに。
二人が関係を持った事によって、かえって距離が広がったと感じているのは、多分私だけではない
だろう。うつろな気持ちで食べる朝食は、味が殆どわからなかった。


夜になって雨が降り出した。それは肌寒い風とあいまって、秋の訪れを感じさせる。雨の中、昼間に調合した風邪薬を入れた小瓶を携えて、今夜もセラヴィーの家を訪ねた。
私が作った薬なんて飲まないかもなと思いつつ、彼の部屋をノックする。
寒気がしているのか、ローブの上に肩掛けをした格好でセラヴィーが戸を開けた。ただそれだけの変化なのに、何だかセラヴィーが知らない人に思えて、上手く言葉を見つけることが出来ない。
「これ…」
 いつもよりもっと愛想のない声で、小瓶を差し出す。
「風邪薬よ。飲みなさいね。あんた、夜もロクに食べてなかったでしょ。しいねちゃんにうつされても嫌だから」
 セラヴィーは何も言わずに、一歩後ずさり、スペースを空ける。受け取ろうとしないので、私が小瓶を渡すには、自分も部屋に入るしかない。
「ヘンなものは入れてないから、受け取りなさいよ」
 怒ったように言うと、セラヴィーはやっと手を伸ばして薬を受け取る。
「ご親切にありがとうございます、どろしーちゃん」
 バカ丁寧な口調が気にならないでもなかったけれど、一応渡せた事にほっとする。今日はこれで帰るわ、と言いかけた時、セラヴィーがこちらに片方の手を差し出した。
「セラヴィー…」
招くように差し出された腕に視線が釘付けになってしまう。
 セラヴィーはそんな私を見て、嫣然と微笑んだ。私が差し出された腕を拒めないのを見透かしているように。
腕。力強い腕に、長い指。幾度となく私を溺れさせた…
ごくり、と喉が鳴ったかも知れない。
 今、私はこの男に欲情していた。
「どろしーちゃん、今晩は欲しくないんですか?」
 いつも何だって自分より上手くこなす彼が許せなかった。それなのに、あんなに嫌った器用さで、身体を弄ばれることを欲している自分がいる。
欲しい、と答える変わりに、私はセラヴィーの首に片手を巻き付けて、傷つけようとでもするかのように、乱暴に唇に自分の唇を押し当てていた。


多分私は、元から貞操観念のある方じゃなかったんだろう。この年まで処女だったとい
うのは、単にお誘いがなかったというだけのことで。呪いを解く為なら、あの中年男に身
を任せようとした位なのだから。
 ただ、セラヴィーに抱かれるのだけは嫌だと思っていた。でももうそんな矜持も、捨て
てしまった。だとしたら、身体の関係を重ねることで、私はセラヴィーをあの中年男と同
列にしていると言えるのかも知れない。
 考え出すと、出口のない迷路に入り込んでしまったような気持ちになる。
 夜が来て、セラヴィーに抱かれて頭が真っ白になっている間だけ、その迷路から抜け
出せないでいる自分を忘れることができた。
「もうこんなになっていますよ、どろしーちゃん」
 ベッドに座った状態のセラヴィーの膝に跨り、座位の姿勢をとる。首に腕を回し、脚の
付け根を弄られる刺激に身を委ねる。私の弱い部分を知り尽くしている彼の丁寧な愛撫
で、そこはもう充分に潤っていた。指の抽送が繰り返される度に、部屋の中に水音が響く。
快感に耐えるために力を入れすぎた太ももが震えていた。
「ん…ああっ…も、もう」
「もう?どうして欲しいんですか?」
「…もう、入れて…あっ…」
 いつもならあまり言わない言葉を口にする。
 首筋から耳朶をセラヴィーの舌がねっとりと舐め上げる。溜まらず反り返った私の上半
身を抑えて、耳元にとどめを刺すかのように囁く。
「珍しく素直でいい子ですね、どろしーちゃん…」
人差し指と中指で襞をくつろげられ、片方の手を腰に添えられ、そのまま深く沈んで行く。
「…はっ…あ…」
 お腹の中に、セラヴィーの熱いものがしっかりと入っているのを感じる。いつもはこれで夢中になる。何も考えずに声をあげて、快楽に身を任せるのに。
今日は何故か、頭のどこかがしんと冷えていた。
 眼を開けるとセラヴィーの肩越しに、エリザベスが映る。
 そうだ。今日は妙にあのお人形がちらつくんだ。
 それを振り払おうと、眼を瞑って、セラヴィーの肩に顔を押し付けて、行為に没頭しようとしたけれど、無理だった。
 どうしよう。
悲しい。
こんなに近づいて、身体を求め合っているのに、どうしようもなく遠く感じる。
 矜持を捨てて、ただ快楽に我を忘れることを選んだはずなのに。
「…セラヴィー…」
 小さく呟いたけれど、返事はなかった。ただ腰を揺らして、自分の快楽を得る行為に専念しているのか。規則正しい振動に、乗り物酔いにも似た眩暈すら覚える。
心も通じず、身体も熱くならない。最悪だ。
いつもは気にならない全身を伝う汗が、身体中の熱を奪っていくような気がして、私はセラヴィーに揺さぶられながら、ただ無闇に彼にしがみついていた。


抱かれたばかりだというのに、身体中が冷えていた。その寒さのせいで動作が緩慢にな
っている。床に散らばった下着を拾い集めて身につけるのに、いつもよりずっと時間がか
かってしまう。ふと振り返ると、やはり体調が悪いのだろう。珍しく、セラヴィーは眠り込ん
でしまったようだった。身体を窓側に向けているので、こちらからは、裸の背中と緑色の後
頭部しか見えない。ふと机に置かれたままの薬の小瓶に気付く。
風邪、大丈夫かしら?
何だか起こす事も躊躇ってしまう。そのままぼうっと無防備な寝姿を眺めた。
 背中を向けられているせいなのか。たまらなく寂しかった。
 いくら身体を重ねても、心が交わらなければその行為には何の意味もないのだ。
それを今晩、思い知らされた。
「泊まっていきなさいよ、どろしーちゃん」
「な…」
 場違いな女の子の声が部屋に響く。それは勿論、テーブルの上に座っているエリザベスの声だった。
「そうしたらあの時の晩みたいに、朝まで楽しめるじゃない?」
 いや、実際に喋っているのはセラヴィーなのだが。腹話術によって発せられる少女じみた声に、何かがふつりと切れた。
 さっきみたいのでいいの?あんな風な繋がりを、あんたは楽しいと感じたの?
 私の身体は冷えきって、心も空っぽだったのに。それにも気付かないで。
 八つ当たりだとはわかってる。適度な運動と言い切ったのは、私のほうなのだから。
 それでも、抑えきれない感情が膨れ上がる。セラヴィーの部屋にいながら、私はまた一人迷路へと迷い込んで行った。
「いいわよ?…ただし」
言うなり、エリザベスの腕を掴んで、窓から投げ捨てる。無意識に魔法を使っていたのだろう。雨の中、お人形は随分遠くまで放たれ、闇に吸い込まれて行った。
 お人形に罪がないのはわかる。罪があるのは。
「何するんですかっ?!」
 セラヴィーはベッドから起き上がり、私を押しのけて窓から身を乗り出す。
「エリザベス!待っていて下さい、今僕が助けに」
 見苦しいくらいに取り乱して、セラヴィーは今にも外に飛び出す体勢になる。
「セラヴィー」
 ただならぬ私の声の響きに、錯乱状態だったセラヴィーがこちらを振り向く。その眼には、涙が滲んでいた。私はそんなセラヴィーから視線を外さずに微笑む。
「…どろしーちゃん…」
「どうしたの?朝まで楽しむんじゃないの?」


形勢が逆転していた。
 セラヴィーの眼に、微笑んでいる私が映っていた。それは、いつも私がここで見るセラヴィーの表情にそっくりだった。そして、今の私の眼に映る彼の顔は多分…。
窓際に立ち尽くす裸の男の頬を撫でて、自分から口付ける。抵抗はされない。唇を割って、舌先を絡め、セラヴィーの口腔を犯す。
相手の気持ちにおかまいなしに身体だけを昂ぶらせること。最初にセラヴィーがやったことじゃない?私だって、出来ないわけじゃない。
「ん…ふぅ…」
長い口付けを終えると、二人の唇の間に糸が垂れた。
そこで眼と眼が合う。
セラヴィーは、途方にくれた男の子のような顔をしていた。そんな顔をよく知っているような気がして、ふいに私までとても悲しくなる。両手から力が抜け、だらりと降ろしてしまう。
何をやってるんだろう。最低だ。私。
後ろを向いて唇を拭いながら言う。
「…拾いに行きなさいよ」
「どろしーちゃん…」
「…行ってよ…大事なお人形がめちゃくちゃになる前に…」
 雨の音はますます激しくなっていた。
 私自身、エリザベスがどこまで飛んでいってしまったのか見当もつかない。でも、セラヴィーのことだから、すぐに見つけるだろう。暗闇にも光るあのキラキラした金髪を頼りに。
「…エリザベスは、特別なんです…だって」
「聞きたくない、やめて!…早く探しに行きなさいよ!」
「どろしーちゃん…ごめんなさい」
そう言ってセラヴィーは一瞬でローブ姿となり、窓から雨の降る外に出て行った。
 謝らないでよ。馬鹿セラヴィー…変態の、どうしようもないやつ…。
白けた悲しい空気の残る部屋に私は一人残される。まだ下着姿のままの自分に気付いて、ドレスを着てからベッドに座る。
 瞳を閉じて、頭の中にエリザベスを思い浮かべた。暗闇の中横たわっているお人形に傘を差しかけてあげる。想像力が必要なこの手の魔法は、あんまり得意じゃない。うまく行けばいいのだけれど。
どしゃぶりの雨の中一人ぼっちで。イメージの中のお人形は、それでも微笑んでいた。


それから長い時間が過ぎたように思ったけれど、時計を見ると半時もたっていなかった。セラヴィーがびしょぬれになって部屋に戻る。腕にはエリザベスを抱いていた。
私の下手な魔法はやっぱり失敗したらしい。彼女もセラヴィーと同じ位濡れてしまっていた。もしかしたら、この子自身が傘を拒んだのかも知れない。そんな事をふと思う。
「どろしーちゃん…」
「ひどい格好ね…雨をよけることも考えられない位、必死だったの?」
 大事そうに抱えられたエリザベスを見て、忘れていた痛みが胸をキリキリと刺す。 
でも、もうこれでいい。これで決定的に失恋できる。その為に部屋に残っていたのだ。セラヴィーは今の私を愛さない。裸同然の私を一人部屋に残して、昔の私を模ったお人形をおいかけていく…。
「私も」
泣かないように、泣きたいと思っていることを気取られないように、強い口調で言う。
「私も謝らないから……さよなら、セラヴィー」
 これ以上ここにいたら、間違いなく泣いてしまう。全身を緊張させたまま、私は扉に向かおうとした。
「どろしーちゃん」
 何かが私の足を止めさせ、警告を無視して、彼の方へと振り返らせる。
 セラヴィーは雨に濡れ、お人形を抱えて立ち尽くしていた。
「どろしーちゃん……行かないで。一人にしないで」
 セラヴィーの瞳から、さらに大粒の涙が毀れて、彼はその場に立ち尽くしたまま泣き出した。
 一人にしないで?
 もしかしてそれが、この前から言いたかった言葉なの?
 唇を歪めて、怒っているように見えたのは、その言葉を押し殺していたから?
 泣くのを堪えていたから?
 私が一目後ろを振り返ってさえいれば、こんな顔をしたあんたがいたの?
 あまりに驚いて、息をするのも忘れていた。その瞬間、本当に時が止まっているように思えたのだ。


「どろしーちゃん。結婚の約束をしたの覚えています?お花畑で、きらきらした笑顔で、
僕のプロポーズを受けてくれた。エリザベスを見ると、その場面が鮮やかに蘇るんです。
嫌われていなかったこともあったんだって思える。だから、エリザベスは特別なお人形な
んです。この子を失くしたら、その思い出までなかった事になりそうで」
 今のセラヴィーを見て、どうして自分がこんなに動揺しているのかわかった。あのお花
畑で、結婚の約束に指切りをした男の子を思い出すからだ。もっとも、記憶の中のあの子
は、上気した顔に満面の笑みを浮かべていて、今の彼は泣き顔なのだけど。
 私は、それを忘れていた。
 いや、結婚の約束をしたのは覚えている。ただ、自分がその時どう思ったか。どんな気持
ちだったか、忘れかけていた。
 確かにあの時、私は何の屈託もなく、あんたの事を好きだった。
 けれどいつしか、その男の子が私よりも何でも上手くこなして、私に手に入る筈だったものを
不当に横取りしていると思うようになって行った。
そして、あの日を迎えた。
 あんたが私を、初めてブスと言った日。
 ある意味羨ましかった。髪の色を変えただけで心変わりできるなんて。嫌いになれるなんて。
だって、私はずっとずっと…。
「…三ヶ月前、強引なやり方でどろしーちゃんを手に入れてから、心が休まる暇がなかったんです。
手に入れる前より、手に入れた後のほうがずっと怖かった。今度は失うことを怖れるようになるから。
どろしーちゃんに嫌われて当然ですね。いつか捨てられるのが怖くて、昔の思い出に縋って。いつだ
って、今のどろしーちゃんが一番好きなのに。どろしーちゃんに相応しい男になりたかったのに…」
 整った顔を涙でぐちゃぐちゃにして、お人形を抱いて。
 あんたいくつになったの?もうそんな年でもないでしょうに。
 セラヴィーの腕からいきなりエリザベスを取り上げる。
 それを何と思ったのか、セラヴィーの諦めきったような表情に苦笑いする。
「安心してよ、もうこの子に危害を加えたりしないから」
 いつもの彼の真似をして人差し指を軽くふると、エリザベスの髪とドレスは乾き、もう防御もなにもないセラヴィーはパジャマ姿になっていた。
 私の真意を測りかねているような顔をしている彼をベッドに座らせて、濡れている緑色の髪をタオルで乾かす。何となく、これは魔法じゃなく、手でやってあげたかったのだ。
セラヴィーは本格的に風邪をひきつつあった。髪を乾かしてあげながら額に触れると、驚く位に熱い。それでも彼は熱にうかされた眼をしながら、じっと私の言葉を待っているようだった。


でも、私は、こういう時、喋るのが苦手なのだ。
言葉を発する代わりに、机に置いてあった小瓶から薬を口に含んで、そのままセラヴィーに唇を重ねる。
信じられないというような顔で私を見つめ、それでもこくりと薬を飲み下す。
「…しない…」
「え?」
「一人になんてしないから、今は寝なさい」
「どろしーちゃん…ほんとに…」
 そう言った途端、セラヴィーはくたりと仰向けになって枕に上体を倒す。
「どろしーちゃん…この風邪薬、睡眠成分入れす…ぎ…」
「え?こんなもんでしょ?」
 と言いつつ、確かにちょっと効き過ぎな気もしないでもなかった。
「…僕はまだ、眠りたくな…」
「眠りなさい。起きてもまだ、傍にいるから」
 安心させようと、セラヴィーの頬に触れた手の平が熱い。
そこから確かに官能を感じている自分に驚く。こんなときなのに。
 したい、なんて思うなんて。
けれど今はそれを汚い気持ちとは思わない。触れていたい、触れて欲しいと思う事は、そんなに悪いものじゃないと思えた。
勘のいい彼の事だ。私が、何か言おうとしている事に気付いているのだろう。意識を保とうと瞼が抵抗を見せている。でもそれもすぐに終わり、熱に潤んだ瞳が閉じられ、規則正しい寝息が繰り返される。
私はそれを見届けてから、深呼吸して自分の気持ちを整理した。
 彼に対して、好きだけしか言葉がみつからないような時代が確かにあった。無邪気にプロポーズを受けて、小さな手で指きりをした。
そんな花畑での気持ちを忘れていたことを、責めないで欲しい。
確かにあれから私はあんたに対して、嫉妬や、疑惑や、色々な気持ちを抱くようになった。
でも、それでも。
ずっと、あなたのことが。
「…想い出に縋る暇もない位に、好きなのよ」
耳元に小さく囁く。
でもその言葉は、眠るセラヴィーには届いていない。今は、まだ。
                                   (終)