「席についてて。もうすぐできるから」
 エプロンをしたどろしーが手招きした。台所には、パンの焼けるようないいにおいがただよっている。
 俺はテーブルについた。
 チャチャとリーヤとしいねちゃんは遊びに行っている。セラヴィーは買い物に行ったらしい。
 つまり、この家には俺とどろしーしかいないのだ。
 俺はなんとなく緊張したが、どろしーは上機嫌で台所にむかっていた。オーブンを見たり、棚から
何か取り出したり、忙しく動いている。曰く、ダイエットケーキなるものを作っているらしい。セラヴィー
の作るおやつはカロリーが高すぎると文句を言っている。カロリーひかえめ、その上食べれば食べる
ほど痩せていくケーキ……らしい。
「あ、今回は試作品だから、魔法薬とかは入れてないわ。安心してね」
 ちょっとホッとした。ひょっとして実験台かと思っていたのだ。
「ポピィくんがいてくれてよかったわ。お茶の時間は、人数がいる方が楽しいもの」
 どろしーが台所からこちらを向いた。優しい笑顔だ。普段チャチャ達を怒鳴っている凄い形相からは
想像もつかない。
 チャチャ達に対する態度と違って、僕にはまだ遠慮もあるのだろう。こんなきれいな笑顔を向けて
くれることが多い。
 そして僕は、どうやらその笑顔に一目惚れしてしまったらしいのだ。
 ――あいつなんかにゃもったいない。いつもそう思う。
 いつまでたっても素直になれず、相手に優しくすることができない奴。
 あいつは――セラヴィーは、泣くほどどろしーが好きなくせに。
 どろしーに構ってもらいたくて、いつもいつも意地悪をしている。子供みたいに。
 本当は嫌われたくないくせに。
「もっと優しくすればいいのに」
「ん?」
 どろしーが返事をした。心の中だけのつもりが、言葉を口に出していたようだ。
「何か言った?」
「い、いや、別に…」



 ――俺だったら、そんなことはしない。好きな人には、いつでもそばにいて、優しい言葉を言って、
安心させてやる。
 ふと、どろしーの後ろ姿を見た。忙しそうに作業をしている。長い黒髪が揺れている。
 どろしーは、俺がこんなことを思ってるなんて知らないんだろうな。
 俺のことは、チャチャやリーヤと同レベルだと思われているような気がする。不本意だけど。
 ……どろしーは、どう思ってるんだろう。あいつのこと。
 セラヴィーのことは嫌いだと公言している。口を開けばあいつの悪口。普通に考えたら、好きなはず
はないのだが。
 でも、それを確かめるのが怖くて、未だにどろしーの心は読めないでいるのだ。
「さー、できたわよ。ポピィくん、悪いけど、ちょっと運ぶの手伝って。紅茶淹れるから」
 皿の上には焼きたてのケーキがきれいに等分されて並んでいた。ダイエットケーキというだけあって、
クリームなどは塗られていない。シンプルな作りだが、スポンジはふわふわで、表面はきつね色に焼け
ている。少しはちみつがかかっていて、カットされたフルーツが添えてあった。
「どう? 見た目も結構いいでしょ」
 ケーキを並べている間に、どろしーは紅茶を淹れて持ってきた。
「では、いただきます」
 俺はケーキを口に入れた。
「…おいしい」
 素直な感想だった。お菓子のことはよくわからないけど、甘くなく、あっさりしている。やたら生ク
リームが塗ってあるものより、こっちの方が俺の好みだ。
「ほんと?」
「…嘘じゃない」
 途端に。
 どろしーの顔にぱあっと笑顔が広がった。
「よかったー。じゃ、わたしも食べよう。いただきます」
 その笑顔に見とれていた自分に気づいて、あわてて下を向いた。


「あ、二人だけでケーキ食べてる。ずるい…」
 いきなりセラヴィーの声がした。音もなく帰ってきたらしい。片手に買い物袋をさげ、一方にエリザ
ベスを抱いている。
「あんたの分はないわよ」
 どろしーがセラヴィーに背を向けたまま冷たく言い放った。
 セラヴィーは何か言いたげだったが、買い物袋を置いてどろしーの背後に回ると、隙を見てケーキを
一個まるごと口に入れた。
「あーっ!!」
「んー、ひょっと、粉っぽいですねぇもぐもぐ。甘さはおさえればいいってもんじゃないですよもぐもぐ。
やっぱりどろしーちゃんにはお菓子づくりのセンスがないなぁもぐもぐもぐ」
「うるさいっこの馬鹿! ケーキ返しなさい!」
「返していいんですか?」
「口から出すな馬鹿!」
 いつものケンカが始まった。どたばたとうるさい。時々何か飛んでくる。
 毎度のことだが、いいかげんやめてもらいたい。俺はまだケーキを食べているのだ。
 と、突然、
「ふんだ、ポピィくんはおいしいって食べてくれたからね!」
 と言うなり、どろしーは俺をぎゅっと抱きしめた。
 俺は椅子に座っていたわけで、いきなり後ろで声がして驚いて振り向いたわけで、
 ――つまりその、俺はどろしーの胸に顔を埋めることになったのだ。
 目の前の全部が、やわらかくて、あったかくて、ふわふわの感触。薄い布の下の感触さえわかる。
息を吸い込むと、いい香りがいっぱいに広がった。顔が熱くなる。もうどうしたらいいんだろう。
 俺は自分の手を回すことも思いつかなくて、抱きしめ返すこともできずに、ただ棒みたいに突っ立っ
ていた。


「……どろしーちゃん、ポピィくんが固まってる」
 セラヴィーの声がした。冷静な声に聞こえるが、こいつもどこか固まってるみたいだ。
「えっ? あ…。ご、ごめんね?」
 あたたかい感触がさあっと離れた。
 離れていくどろしーの顔は見られなかったけど、少し赤い顔が視界の端に映った。

 そのときはそれだけ、また二人はすぐにケンカに戻ってしまったのだが……
 あとで、セラヴィーがジト目でこっちを見ていることに気がついた。
 あれだけケンカした後なのに無傷だ。
 思考は読まなくてもわかる。…『いいなぁポピィくんいいなあずるいなぁ』
 俺は、それに気づかないフリをして部屋を出た。
 あいつはエスパーじゃないが、俺の考えを読まれそうなのが嫌だったからだ。

  …やっぱり、あの人は、あんたにはもったいないよ。