「きみ……後ろに乗らないか。家まで送るよ」
不意に背後から掛けられた声に、ひろみは驚いて振り向いた。
それが自分に向けられた言葉だと、ひろみはすぐに理解することができなかった。声の主は、
あの藤堂だったのだ。

「へっ!? わ、わ、わたし、ですかっ!?」
あまりの出来事に、つい素っ頓狂な声を上げてしまう。
だって、あの藤堂さんが……女子テニス部員全員の、いいえ、西高女子生徒全員の憧れの
的の藤堂さんが……この私を「家まで送る」だなんて……とても信じられない!
ひろみは目を丸くして藤堂を見た。

「そうだよ、足は大事にしなきゃだめだぞ」
藤堂はひろみに優しく笑いかけた。
「で、で、でも……あのっ、あの……」
憧れの人からの、突然の誘い。ひろみの胸は高鳴り、動揺が唇を震わせて、うまく答える
ことができない。そんなひろみに、周囲の女子部員の目が突き刺さる。
さっきまでお蝶夫人に優しい言葉を掛けて貰っていたと思ったら、今度は藤堂が「家まで
送る」と言っている。そんなひろみに、嫉妬の炎が向けられるのは当然のことだ。
緊張と焦りに、女子部員の射るような視線の恐怖が加わって、ひろみの足はガタガタと震え
始めた。

そんなひろみの様子などまるで気にしない風で、藤堂は乗っていた自転車の荷台に、半ば
無理やりにひろみを跨らせた。
「ほら、遠慮しなさんな。しっかりつかまって!」
藤堂の手が、ひろみの小さな手に触れた。藤堂は、その手をためらいなく自分の腰に導く。
コートの上からでも、彼の締まった腰の筋肉ははっきりと感じ取ることができる。ひろみは
初めて触れる男性の体に戸惑い、おずおずとコートの上を撫でた。

物慣れないひろみのそんな仕草は、藤堂の目に可愛らしく映った。この手を引っ張って、
自分の腰をしっかりと抱くようにしてやっても良いのだが、それはまだ可哀想に思えた。
「ン! くすぐったいなあ。じゃあ、ベルトをつかんどいで」
まるで教師の指示に従う生徒のように、ひろみは必死で藤堂の腰を囲うベルトを握りしめた。

その感触を確かめると、藤堂は「みんな、お先に!」と言って、颯爽と自転車を漕ぎ出した。

二人が去った後には、唖然とした女子部員と、物言いたげな宗方コーチ、睨み付けるような
お蝶夫人の視線が残された。

ひろみはベージュ色のコートに包まれた藤堂の大きな背中を見つめていた。
細身とはいえ、一人の女を後ろに乗せているのに、自転車は軽々と坂道を登っていく。
ひろみがコートに鼻先を寄せると、かすかに男の匂いがした。

「きみ、足を冷やすと痙攣を起こしやすいんだよ。ちゃんと汗を拭かなきゃだめだよ」
藤堂の言葉に、ひろみは今日のぶざまな自分を思い出していた。
青葉高との地区大会……試合前に、親友の牧にも、藤堂にも、励ましの言葉を掛けて貰った
のに……ベストを尽くさないうちに、コートの中で痙攣を起こして棄権する破目になって
しまったのだ。選手として初めての試合とはいえ、なんてみっともない姿……。藤堂さん
には見られたくなかったな……。

「すみません、以後気をつけます」
今日の試合の結果を見れば、自分が選手から降ろされるのは当然だ。元々そんな資格なんて
なかったのに……コーチから強制されて、お蝶夫人やとりまきの先輩には意地悪されるし、
藤堂さんにも格好悪いところを見られてしまうし……ひろみは藤堂に叱られた気がして、
ぐんぐんと風を切る彼の後ろで俯いた。

それから二人は、他愛のない会話をぽつりぽつりと交わしながら、夕暮れの道を走っていった。
コートを離れてしまえば、まだほんの少女のようなこの後輩に、藤堂は惹かれていた。幼い
子どものような屈託のない笑顔、時おり見せる潤んだ瞳、小鹿のようなスラリとした肢体、
今日の試合で見せた、あの力強いスマッシュ……彼女の表情や仕草のひとつひとつが、小さな
宝石のように藤堂の目を捕らえて離さないのだ。

「あ、着きました。あそこです」
割としっかりとした造りの一軒家を指差し、ひろみが言った。
藤堂は彼女が前のめりにならないように気をつけながらブレーキを握り、片足をついた。
ひろみはゆっくりと荷台から降り、鞄を握り締めた。「あの……」と言ったまま自分の手元に
目を落とし、藤堂の顔を見ようとしない。

自転車に二人乗りをしたのが、よほど恥ずかしかったのだろうか。本当なら手のひとつも握り
たかったが、藤堂はそれをこらえ、「じゃあ」と言ってペダルに足をかけた。
「あ、あの……」
またそう繰り返して、ひろみがコートの端を掴んだ。
「?」
「送ってくださって……ありがとうございます。あの……もしよろしければ、お茶でも……」
ひろみは顔を真っ赤にしながら、藤堂を上目遣いで見た。
「えっ……それは……あ、いや、遠慮させてもらうよ。こんな時間に、ご迷惑だろうし……」
あまりにいじらしいひろみの申し出に、藤堂はつい承諾しそうになったが、生徒会長の自覚が
何とかそれを制した。しかし、次のひろみの一言で、それは簡単に砕けてしまった。

「いえ、今日は両親とも出かけていて……遅くまで帰らないんです」

裏口だというその門をくぐると、小さいがよく手入れされた日本庭園が現れた。
ひろみの父は造園家だという――なるほど調和のとれた美しい造形だ、と藤堂は思った。
「どうぞ」
ひろみが物慣れない様子で藤堂を家中に招じ入れた。おそらく自宅に男子を呼んだことなど
ないのだろう。自分の家だというのに、そわそわと落ち着かない素振りで藤堂を居間まで
案内した。

お茶を淹れます、と行ってそそくさと席を立ったひろみの後姿を目で追いながら、藤堂は
整理された部屋の中を見渡した。
藤堂の家とは違い、純和風の造りのその家は、どこか懐かしい感じがした。藤堂はあぐらを
かき、奥から聞こえてくるかちゃかちゃという音に耳を澄ませた。

「あちっ!」
突然高い声が上がったかと思うと、陶器の砕けるけたたましい音が響いた。どうやら茶碗を
割ってしまったらしい。藤堂は慌てて立ち上がり、台所の方へ歩いて行った。
「どうしたんだ、大丈夫か? 岡さん」
暖簾をくぐると、ひろみが泣き出しそうな顔で藤堂を見上げた。
割れた茶碗の欠片が足元に散らばり、こぼれた熱湯が水溜りになって湯気を上げている。

「ご、ごめんなさい、わたし……」
「危ない!」
欠片を拾おうとするひろみの手を、藤堂が掴んだ。ひろみはハッとして手を引っ込めた。
「駄目だよ、手を切ったらどうするんだ」
言いながら藤堂は、慣れた手つきで茶碗を片付け始めた。ひろみはぼぅっとしてその様子を
眺めていたが、ふと我に返って藤堂の肘の辺りを押さえた。
「と、藤堂さんこそ! わたしなんかよりも、藤堂さんがお怪我でもされたら……」
「何、こんなのはしょっちゅうさ。あの連中と一緒にいればね」
藤堂は笑って、しゃがんだ姿勢のままてきぱきと片付けを続ける。
ひろみは申し訳なさでいっぱいになりながら、藤堂の手つきと、目の前に迫る逞しい体躯に
目を奪われていた。

こぼれた湯を布巾で拭い、「さ、これですっかり綺麗になった」と立ち上がった藤堂は、その
まま流し台に向かおうとした。ひろみは藤堂から布巾を奪うようにして引き取り、「後はわたし
が……」と言って水道の蛇口をひねった。

しかし、布巾に付いた小さな赤い染みを見て、ひろみは血の気が引いていく思いがした。
「と、と、藤堂さん! もしかして、手……!」
「ん? ああ、これね。気にすることはないさ、すぐ治る」
藤堂は自分の人差し指の先端を口に咥え、ちゅっという音をさせて唇から離した。
「わたし、わたし、部屋から救急箱を取ってきます!」
慌てて去ろうとするひろみの手首を、藤堂が強い力で掴んだ。
「どこに行くんだい? 岡さん」
「あの、絆創膏を取りに……わたしの部屋に……」
ひろみの視線が揺れている。
「……僕も入れてくれるかい?」
「ええっ! そんな……」
突然の藤堂の申し出に、ひろみはうろたえた。
「僕に悪いと思っているなら……ね、これでおあいこだよ」
優しい口調、けれど何かを強く求めているその瞳に射られて、ひろみは首を縦に振ること
しかできなかった。

無言で2階へ上がり、部屋のドアを開けると、ゴエモンが甘えた鳴き声を上げながら足元に
飛びついてきた。藤堂がゴエモンを拾い上げ、「おっ、雄だな」と笑った。緊張した空気が
和み、ひろみはホッと息をついた。

引き出しから絆創膏を取り出し、藤堂の指先に巻く。ひろみは言葉を発することができずに
いた。それは、自分のせいで先輩の手を傷つけてしまったこと、初めて自分の部屋に男性が
座っているということ、それが他でもない、憧れの藤堂だということ……それらが混ぜこぜに
なって、ひろみの胸を締め付けているからなのだった。

その手当てが済んでしまうと、ひろみはどうしてよいのか分からなくなってしまった。
藤堂はゴエモンを膝の間でじゃらしながら、ひろみの部屋を物珍しそうに見渡している。
こんなことになるなら、もっと綺麗に部屋を片付けておくんだった! 雑誌や食べかけの
お菓子が出しっぱなしになっていて、ノートや鉛筆がそこら辺に転がっている。ベッドの
上の布団はぐちゃぐちゃのままだし、こんな部屋を見て、藤堂さんはどう思うだろう……。
ひろみは顔から湯気が上ってしまうんじゃないかと思うほど恥ずかしかった。

「大きな姿見だね。これなら自分のフォームも確認しやすい」
藤堂は、ひろみの心中など全く気にしていない風で、壁に掛けられた鏡に目をやった。
「あ、そ、そうなんです。お蝶夫人にもアドバイスいただいて、この前で素振りを……。
やっぱり、鏡で見てみるとよく分かりますよね、自分の駄目な所とか。この間も、ラケット
の面がきちんと当たってなくて」
つい饒舌になってしまうひろみ。藤堂は落ちていたラケットを拾うと、ひろみの手に握らせた。
「やってごらん」

ひろみはラケットを握ったまま、ぶんぶんと頭を振った。
「そっ、そんな! と、と、藤堂さんの目の前でなんて!!」
「おや? これでも天下の西高のエースといわれている男だぞ? それとも、お蝶夫人の
言うことじゃないと聞けないっていうのかい?」
藤堂はひろみをからかうように言った。
「えっ、いいえ、そういうわけじゃ……! でも、だって、藤堂さんなんて……」
ひろみは顔を真っ赤にして、首を振り続けた。
「それとも、宗方コーチじゃないと……」
藤堂は少し悲しそうな色をその瞳に浮かべた。

一瞬の沈黙の後、ひろみは立ち上がって、鏡の前でラケットを構えた。
「へ、変なところがあったら、すぐ言ってくださいねっ」
藤堂が頷くのを見ずに、ひろみはほとんどやけくそで素振りを始めた。
「おいおい、岡さん。もっと真剣にやってくれなけりゃ、こっちも見ている甲斐がないよ」
藤堂の言葉にバツを悪くしたひろみは、ようやく足を普段どおりのポジションに構えて、
力を込めてラケットを振った。
しばらくひろみの様子を静かに眺めていた藤堂は、真剣な面持ちで立ち上がり、ひろみの
後ろに回った。

「グリップの位置が少し高すぎるんだ。だから打点が狭くなってしまう。もっと……」
藤堂は優しくひろみの指に触れ、ラケットを握るその手に自分の手を合わせた。ひろみの
指がぴくんと反応する。
「そう、ほんの少しでいいんだよ、力を入れすぎないで……」
藤堂が、ひろみと手を重ねたまま、背後から体を寄せてくる。ひろみの耳には、彼の言葉など
届いていなかった。聞こえるのは、今までにないほどに高鳴る自分の鼓動だけだ。
ひろみの体は硬直していた。鏡に映っているのは、緊張で震えだした自分と、自分にぴったりと
寄り添う藤堂の姿だ。これは夢じゃないだろうか。こんな風に藤堂さんに手を取ってもらって、
自分はどうすればいいんだろうか……。

「……? どうしたんだい、岡さん?」
藤堂が後ろからひろみの顔を覗き込むようにした。
ひろみは甘い驚きに奮え、ラケットを落としてしまった。フェイスの先端がカーペットに
ぶつかる鈍い音がし、うとうとと眠りかけていたゴエモンがびくっと体を起こした。
「岡さん?」
藤堂の声色が変わった。
ひろみは彼の顔を見ることができなかった。鏡に映った自分の制服のリボンを見つめたまま、
ただただ体を硬くし、藤堂の言葉を待っていた。

藤堂は、小さく震えるひろみの肩に手をかけ、その長い腕で後ろからひろみを抱きしめた。

「と、藤堂……さん?」
息が止まってしまうかと思うほどの緊張の中から、ひろみはやっと彼の名を口にした。
藤堂は何も言わず、ひろみの二の腕のあたりをそっと掴むと、ひろみの体の向きを変えた。
鏡の前で、二人は向かい合う格好になった。
ひろみの目の前には、シャツの襟に挟まれた藤堂の鎖骨が現れた。白いシャツの胸が、
激しく上下している……藤堂の胸の高鳴りが、その逞しい胸筋を波打たせていた。
「岡さん」
藤堂に名前を呼ばれて、ひろみは彼を仰ぎ見た。
その瞬間、藤堂の唇が、ひろみの唇を覆った。
「……!!」

ひろみは一瞬、何が起こったのか分からなかった。
けれど、2、3回の瞬きの後、自分の唇に重ねられた暖かい感触に、全神経が集中していく
のが分かった。それは柔らかく、熱っぽく、しっとりとひろみの唇を包んでいた――ひろみは
頭の中が痺れ、甘い陶酔が自分を支配していくのを感じた。
ひろみはゆっくりと目を閉じた。

その気配を感じ取ったのか、藤堂はひろみの腰を抱え、さらに熱く唇を押し付けた。
ひろみもそれに応えるように、僅かに唇を動かした。
藤堂の鼻から漏れた暖かい息が、ひろみの頬にかかる。
あまりの出来事に、ひろみはそのまま意識を失って倒れてしまいそうになった。

藤堂は、そっとひろみから唇を離すと、真っすぐに彼女の瞳を見つめた。
恥ずかしくて、切なくて、ひろみは彼から目をそらしたいのに、その真剣な眼差しは
ひろみの視線を縛り付けてしまっている。
二人はお互いの吐息を感じる程の距離で見つめ合った。

初めての口づけは、ひろみの体を熱くし、瞳を潤ませ、息を荒くさせた。
苦しくなったひろみは、わずかに唇を開き、小さく息を吐いた。
それを見た藤堂は、静かに目を伏せて、再びひろみの唇を奪った。

柔らかい上下の唇の間から舌を割り込ませる。
ひろみは最初、藤堂の舌先が触れたことに驚き、唇を閉じかけた。けれど、藤堂の舌が
少しずつ進入するにつれて、徐々に唇を緩めていった。

藤堂の温かい舌が、ひろみの口中に差し入れられる。
それはひろみが体験したことのない感触だった――粘膜の塊のように熱く滑ったものが、
口の中をまさぐっている――藤堂の舌は、怯えたように縮まっているひろみの舌を捕らえ、
柔らかく絡みついてくる。

「ん……んん……」
ひろみは声にならない声を喉の奥から漏らし、藤堂の唇と舌を受け止めている。
藤堂は、ひろみの舌をぐるりと舐め回し、丸い舌先を唾液ごと吸った。
ふたりの唇が離れる瞬間、ちゅうっという音が響く。

そんな仕草を訝しがるように、ゴエモンがひろみの足元に擦り寄ってきた。
ふわっとした猫の毛が不意にひろみの足首をくすぐり、藤堂に抱かれた体を震わせた。
藤堂がひろみの下唇を吸い上げながら唇を離し、彼女を抱く腕を緩めると、ひろみはさっと
顔を伏せて、足元にじゃれつくゴエモンに目を落とした。
こんなに深い口づけの後で、どんな顔を彼に向ければいいのか分からない。ひろみは藤堂の
腕から逃れるようにそのまましゃがみ込んで、ゴエモンの喉元に手を伸ばした。

藤堂は、猫にひろみを取られてしまったような気がして、少しむっとした。
彼の興奮は、その視線を、ハート模様のカバーが掛かったベッドへと向けさせた。藤堂は
しゃがんだままのひろみの脇を抜けて、ベッドの上に腰を下ろした。

ひろみの視線が彼を追う。目が合うと、藤堂はひろみに向かって軽く両手を広げて見せ、
「おいで」と言った。
ひろみはゴエモンを抱き上げて、恥ずかしそうに藤堂の隣に座った。
藤堂はひろみの手からゴエモンを取り上げて、「君はちょっと遠慮してくれないか、おジャマ
虫くん」と言いながら床へ下ろした。ゴエモンは抗議の鳴き声を上げて、拗ねたように口の
開いた菓子を探し始めた。

手持ち無沙汰になってしまったひろみの手を、藤堂が優しく握る。
「ごめん……嫌、だった……?」
ひろみは彼の顔を見ないまま、ふるふると首を振った。
安心した藤堂はひろみの肩を抱き、指で顎をつまんで、彼女を顔を上げさせた。
そしてまた、熱い口づけを送った。

ひろみは目を閉じて、うっとりとその感触に唇をまかせていた。
ふと、藤堂の手が、ひろみの胸のあたりに添えられた。その手は何かを探すように、ベストの
上を滑る。
ひろみの鼓動が激しさを増した。
藤堂の手は、ひろみの小さな胸のふくらみをとらえた。胸の形を確かめるように丸く撫で、
だんだんと揉むような仕草に変わっていく。
軽く力を入れてふくらみを掴み、優しく緩める。その動きは徐々に規則的になっていった。

ひろみは、ただ藤堂のされるがままになっていた。
彼の手はとても優しく、温かく、ひろみの胸を心地よい甘さで包んでいる。
藤堂は指先をベストの中へ差し入れた。ブラウスの上から、ひろみの乳房をやわやわと
揉んでいく。
ひろみの胸元に、甘い刺激が走った。
「……は……」
ひろみは藤堂から唇を離して、小さなため息を吐いた。

藤堂の喉が、ごくりと音を立てる。
ひろみの目は、藤堂を見ている。彼はベストの下に入れた手を動かしながら、もう片方の
手を、ひろみの襟元に結ばれたリボンの先へと伸ばした。
藤堂の指がリボンの先端を引き、それをほどこうとした時、ひろみの手が彼を止めた。
「……あ、あの……それは……」
「どうして?」
藤堂の目つきは、いつもの優しさを失っていた。ひろみにはそれが、少し怖く感じられた。
今、これ以上を彼に許してしまうことが、ひろみにはどうしてもできなかった……未知の
行為への恐怖や、さっき感じた刺激に臆する気持ちが、彼女に広がり始めていた。

「両親が、帰ってくるかもしれません……ので」
自分で言ってしまってから、ひろみはそのことを思い出した。そうだ、お父さんとお母さんが
帰ってくるかもしれないじゃないか。いくら藤堂さんとはいっても、男の人を家に入れた
なんて知れたら……!

「……そう……そうだよね」
藤堂は落胆したような声で呟いたが、すぐに理性を取り戻したようだった。
ひろみの頭を胸に抱き、額に唇を寄せて「すまなかったね……」と囁いた。ひろみを覗き込む
瞳は、いつもの優しい生徒会長のそれと同じ色をしていた。

藤堂は立ち上がって身支度を整えると、「次は邪魔の入らないところでね」と、いたずらな
微笑をひろみに投げかけた。ひろみは顔を真っ赤に染めて、目をそらした。

門のところまで藤堂を案内すると、ひろみは全身でお辞儀をした。
「どうもすみませんでした……っ」
藤堂は少し笑って、自転車に跨った。そして「ああ、そうだ」と思い出したように言った。
「きみ、テニスをやめるなよ」
「は?」
「何があっても、だよ。テニスはいいよ! ……じゃ、失敬!」
藤堂の漕ぎ出した自転車は、暗くなった街にあっという間に消えていった。

藤堂が去った後、ひろみはしばらくその場に立ち尽くしていた。
「あら? どうしたの、ひろみ。こんな所で」
母の声に、ひろみはハッと我に返った。
「ほら、風邪ひくわよ。中にお入りなさい」
和服姿の母が、父と一緒に玄関の戸を開けて待っている。

ひろみは駆け出しながら、自分の唇に指で触れてみた。
今日、藤堂が残した甘い、甘い感触は、しばらく忘れられそうになかった。